7月のウォッチングは、和田地区「花園」の地名の由来となった子の姫(ねのひめ)の物語が残る諏訪神社と、里見氏を語るうえで外すことのできない正木氏の史跡が残る正文寺を訪れました。
花園駐車場から一本山側の通りを歩くと諏訪神社はあり、境内に小さな社があります。「子の権現」と呼ばれる社の前で、ガイドが子の姫の物語を紙芝居で語ります。
『鎌倉時代、天皇の位をめぐり争いが起こり、時の天皇、花園天皇は皇女の子の姫を守るために舟で淡路島に逃れさせようとしましたが、舟は激しい風により太平洋に押し出され、遠く東の地、和田の浜辺に漂着しました。助けられた子の姫は村人たちと仲良くなり、皆に慕われていましたが、病にかかり亡くなってしまいました。村人たちは大変悲しみ、社を建て子の姫の霊をお祀りし、子の姫が持ってきた黄色の花の木、ハマボウを植えました。
やがて村人たちは、子の姫が打ち上げられた浜の地を黄色の花の花木にちなみ「木花(ぼっけ)」、村の名前を「花園」と呼ぶようになりました。』
この日は、花園区長さんのご協力により子の権現の社の扉を開けていただくことができました。社の中には「子の姫」の絵が掛けられています。参加者の皆さん、普段は近くで見ることのできない子の姫の姿を、手を合わせて拝観しました。
神社の入口にあるハマボウの花は残念ながら咲いておらず、これから夏にかけて鮮やかな黄色の花をつけてくれることでしょう。
諏訪神社を出た参加者一行は途中、童謡作家・鹿島鳴秋が作詞した「浜千鳥」の歌碑のある花園海岸に立ち寄り、中三原の正文寺に移動しました。
正文寺は、安元・治承年間(1175~1180)に豪族・真田氏の菩提寺として建立された禅宗の寺だったそうです。天正二年(1574)に勝浦城主・正木頼忠(環斎)が、父・時忠の菩提を弔うために、亡くなった三原の地に日蓮宗のとして再建されたそうです。
また、頼忠の娘は徳川家康の側室・お万の方だそうです。境内には頼忠の墓である宝篋印塔や五輪塔など南房総市指定の史跡が多く残されています。
また一つ、ふるさとの魅力を感じてもらい、自分たちの暮らすふるさとを思う気持ちを増してもらえればと願いながら帰路につきました。