大井地区は嶺岡牧と柱木牧に囲まれた里山である。江戸時代、牧場の馬や牛が逃げ出したり、盗難にあわないように周囲は木柵や土手垣で仕切られており、出入り口には「木戸」が設けられていた。
小氷期の中にあった江戸時代はとにかく寒く、隅田川も何度か凍結したという。家も天井が張られ、床には畳を敷き、部屋は襖などで区切られ、囲炉裏や火鉢が暖房の主役で、煙の少ない「炭」は必需品であった。それを都市部に提供していたのが、地方の里山である。ここ大井では、それが本格的に展開されたのが、寛政の改革(岩本正倫担当)の嶺岡牧の財政再建の時である。みねおかの牧内や幕府直轄林の松・クヌギ等を炭にして高崎港から御用船で江戸・深川の炭問屋に販売したのである。(前金制度で展開、差益はかなりあったかと思われる)当時、幕府の林への立ち入りは厳しく制限され、「木1本で死罪、枝1本で片腕を失う」という中で、炭焼き窯を作り、俵・縄の製作・平久里中までの運搬まですべて幕府の金で賄われていた。田畑と同じ程度の収入であったと思われる。
その後に、里山から人が離れた時に「便利さ」と引き換えに「余裕」を失った。その「便利さ」さえも気候変動やパンディミック等でおかしくなりつつある時に、私たちは先人たちの「炭づくり」から何を学べるのだろうか?
ファイルの関係で2回に分けて紹介します。